ベクトル/バランス


 その甘い蜜。
 吸えば枯れると分かっている花なのに。


 失敗した。
 今夜の土は冷たすぎる。
 沓を置いてきたのが誰の所だったのかは忘れた。
 通りすがりだったし、名前も知らない。
 それなのについ、いつもの癖で沓を脱いだまま帰ってきてしまった。
 どうせ脱いだんだからと、いつも脱いだまま牀から降りてしまう。
 これだから、たまに外に出たときは困るのだ。
 「取りに帰るにももう道を忘れたことだし」
 どうしてくれようこの頭の軽さ。
 周瑜の呟きは、誰にも聞こえなかった。
 風が吹いていた。適当に結った髪がほつれてうざったい。
 大切な人のことを考えた。


 これも自業自得。
 こんなにも甘い業があるだなんて笑えるじゃないの。
 手は出さないって、もう決めた。


 まだ罪は犯していないと思うのです。
 それなのにこんなときに限って会う。


 「どこへ行っていた?」
 風が吹いていた。暗闇の中で孫策の夜着の裾が揺れていた。
 足音に気づいて出てきたのだとしたら、なかなか優秀だと思う。
 今日の風は、生暖かくて嫌い。
 「散歩」
 特別な響きを持たないように、慎重に答える。
 「長い散歩だな」
 「長い散歩では、いけなかった?」
 孫策の目が、揺れていた。濃い茶色の目が、今日は深い。
 「どうして裸足なんだ?」
 「それが?」
 孫策の目が揺れていた。可哀想に、そんなに思い詰めて。
 「昨日と違う男のにおいがする」
 「それで?」
 孫策の目の中に、冷笑する自分が映りこんでいた。
 笑いたければ、笑え。


 もうそんなに私のことを好きになってしまったんだね可哀想に可哀想に。
 ごめんね。


 もう、頭一つ分の高さが違う。
 見下ろされる格好で見上げていた。
 だんだんと大人の男に近づいている孫策の手。
 でも、その手はもう私を抱きしめることができなくなった。
 今までとは、違う気持ちなんでしょう?
 ごめんね。


 「お前は、何を考えている?」
 押し殺したような孫策の声が耳に心地よい。
 もう泣き出す寸前のくせに、そんなに我慢して。
 「何も」
 眉間に寄せられた皺に触れてみたくて仕方がなかった。
 「こんなことして、どうなるんだ」
 両手で肩をつかまれる。指が食い込んで痛かった。
 どうせならこのまま、壊してしまった方が無害になるのに。
 (こんなことをしても、どうにもならない)
 (叶わない)
 「俺は、お前が……っ」
 「好き?」
 嘲笑う。
 ごめんね。
 「ちがうっ!」
 孫策の叫びが、闇を裂いた。
 ごめんね。


 本当に好きなのはあなただなんて言ったら、あなた狂喜するでしょう。
 そしてあなたきっと滅びるでしょう。
 冗談。


 そうしてあなたと共にたくさんのものが滅びていく。
 そんな光景見たくない。
 そんな光景が見たい。
 冗談。


 私にのめり込まないで。
 私にのめり込んでよ、もっと。
 冗談です。


 なんでまたそんな風に眉を寄せて考えることといえば私のことですか。
 「本当は、父上のことが、好きなんだろう」
 「なんで?」
 否定はしなかった。
 孫策の眉根がさらに寄せられる。
 「父上に構ってもらえないから、そんなことするんだ」
 認識が不足している。
 「どうかな」
 くちびるを寄せたことに意味なんかない。
 「公瑾、」
 一瞬で離れたのにも、意味なんかなかった。
 「おやすみ」
 笑うと、目の前に、いかにも傷ついた目の孫策がいた。
 (救ってください)
 背中を向けて走り去っていく孫策を、ただ目で追った。


 灯りがついていたから、ついふらふらと入った。
 「何の用だ?」
 本当なら、一瞬で刺し殺されても文句は言えないような入り方だった。
 それでも孫堅が落ち着いていたのは、自分の気配がすぐ分かったからだろう。
 「眠る場所が欲しくて」
 それだけ。
 「眠る?」
 牀から降りてきた孫堅に抱き寄せられる。抵抗はしない。
 「今日はそんな気分じゃない」
 それでも、立っているのがつらくて孫堅の襟元をつかんだ。
 顔を寄せると、心臓の音がした。
 「眠るためだけに俺の牀を使いに来たのか。ずいぶん勝手なんだな」
 「そうなんです」


 誰かの手が、欲しいだけです。あたたかい手が、欲しいだけです。
 誰でもいいって、思いこんでいた。
 「また、外に出ていたのか」
 「そんな日でした」
 「瑜、」
 「なんですか」
 引き寄せられる感覚が好きだった。
 耳元にこぼれ落ちる言葉は冷たい。
 「策には手を出すなよ。あれは間違いなくお前に溺れる」
 あれは、まだ子供だからな。
 「分かっていますよ、そんなこと」
 分かっています。
 「分かっています」
 孫策が子供なのだとしても、私は?
 ほどかれた髪が、散らばった。


 この髪をすくためにあなたの手が欲しい。
 本気なんかじゃないけれど。


 また花が咲く、咲きこぼれる。
 まだ罪は犯しません。


 ねえどうしてか笑いたいの。


 孫策side

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