まぶたの裏の赤


 ごめんなさい。
 愛されていて、ごめんなさい。


 「また父上のところに行くのか」
 孫策の目に射られる。
 「お茶を持っていくだけだよ」
 責められていないのは、分かっている。
 ただ、罪悪感が消えない。
 「そうか、」
 ぬぐってもぬぐっても消えないこの罪悪感を、どうしたらいいですか。
 そんな目で、見ないでよ。
 「公瑾、」
 「なに?」
 苦しみたいわけじゃない。苦しめたいわけじゃない。
 「俺だって、お前が、」
 「急いでるから。お茶が冷めてしまうから」
 それ以上聞かせないで欲しい。
 ごめんなさい。


 こんな風に愛されるだなんて、思ってもいませんでした。
 あのころ、ただ夢中で愛を求めていたあのころに戻れるのなら。
 私は笑っていられたのに。
 あの人も、孫策も、皆ただ笑っていられたのに。
 苦しい、よ。


 背中に落ちてくる夕方が熱くて、熔けそうだった。
 回廊を進んでいく足下にまで、斜めに日が差している。
 今夜はきっと晴れて、星がたくさん見られるのだろう。


 「お茶をお持ちしました」
 するりと滑り込んだ室の奥に、孫堅の背中が見えた。
 もう何度も見慣れた背中に、まだこんなに胸が痛くなる。
 痛い。痛いという感覚を、ここ最近忘れたことはなかった。
 「それはお前の役目ではないはずだが?」
 「私が望んだ、のです」
 茶から立ち上る湯気に、睫毛を濡らされる。
 振り返ってもらえるまでの時間が長く感じられるのは、いつものこと。
 「そうか、」
 突然に腕を引き寄せられて、バランスを崩した。


 ここにいろ、って言って。
 一生が一夜ならいいのに。


 胸にこぼれた茶が熱くて、ひりひりと疼く。
 髪に絡められた指が熱くて、どうしていいのか分からない。
 離さないで。
 ふさがれた唇では、息が出来ない。
 引き寄せられて、素直に膝にまたがる。
 離さないで。
 「文台さま、」
 こんな光景、誰かに見られたらどうするんですか。
 「まだ夕方、です」
 「もう夕方だ」
 夕方が落ちてしまう。
 夜が来るまでもう幾ばくもない。
 掠れた声に、耳が囚われた。
 助けを求めるように、孫堅の服をつかんだ。


 もっと早く、こんな気持ちになると分かっていたら。
 私きっと、ここに来られませんでした。


 ざらりとした顎を、額に押しつけられる。
 「甘い匂いがするな」
 「花を狩りに行ってきました」
 「優雅ではないか」
 「軍の演習を逃げたんです」
 首筋から流れ込んでくる熱を、忘れないでいられるなら。
 何でもします。
 こぼれてきたため息を、唇で受け止めた。
 転がった茶碗が、天井を見ていた。


 夕日が窓から差し込んでくる。
 目を開けていることが出来なくて、きつく閉じる。
 「瑜、こっちを見ろ」
 「まぶしい」
 まぶたの裏の赤が。
 まぶたの裏の。
 まぶたの。
 「キスして」
 まぶたの上に、落とされる唇が熱い。
 このまま熔けて、そして。
 「不安なのか」
 「そんなことはないです、何も」
 何も不安なんかじゃない。
 私、こんなに幸せなのに。


 私、こんなに幸せなのに。
 愛されれば愛されるほど、もう消えてしまいたくなります。
 「文台さま、」
 夜が来ます。
 「文台さま、ぁ」
 夜が来ました。


 窓の外から、こちらをうかがっている孫策と目があった。


 「ねえ、朝まで愛してください」
 「今からか?」
 「今から」
 「今からだと、長いぞ」
 「長く、ずっと。抱いてて?」


 笑った。


 固い手が、私の好きな手が忍び込んでくる。
 「あ、ぁ…文台さまぁ」


 笑った。
 笑ったのは、誰?


 ねえ、外にいるよ?
 「もう耐えられないのか」
 衣擦れの音が響いて、きっと外にも聞こえた。
 「もっと、して?」
 「分かっている」
 分かってないくせに。


 唇を噛む。嘘がこぼれないように。
 「ごめんなさい」
 怪訝な顔の孫堅には何も言えず、ただ外に目をやった。
 孫策はもういなかった。
 「もっと、愛して」
 「貪欲だな」
 「好きなんです」
 ごめんなさい。


 赤が、まぶたの裏にまだ残っていた。
 こぼれない。
 こぼれたい。


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