厭人病者の一人旅


 望めばすべてが手に入ると思っていたせいか、ほしいものなどそんなにもなかった。
 財も権力も美しいものたちも、そんなものに価値など見いだしてなかった。
 そんな自分が、ただひとつほしいと望んだもの。
 永遠に自分のものにならなくても、いい。
 それでもいいと、ふらふらと追いかけていったのは、誤りだったろうか。
 つかまえたと思った瞬間にこぼれ落ちる髪に、無上を見い出した。

 愚かだとは分かっている。
 「公瑾。あなた以外のものなど、いらない」
 「毎度毎度、よく飽きもせず繰り返せるね」
 指先が触れた瞬間に、もし荊の棘が刺さるとしても、誰が触れる機会を逃すものか。
 望んで刺されにゆく。それがどんなに痛くても。
 「何度も言えと言ったのはあなただ」
 「そう?」
 どちらでもよい、と可憐に歪めるくちびるに、誓いの口づけを落とす。
 初めから、抵抗されることなどなかった。
 まるでそうされるのが、当たり前だというように。
 今まで何人、そうやって誓わせてきた。
 「何度も言うてくれないと、信じられぬと、言うたではないか」
 「ああ、言うたな」
 それがまるで戯れ言だったかのように、
 「いつのことだったかは、」
 笑ってみせる。
 「忘れたけれど」

 でも、違うだろ、あなた。
 ほんとに、誰を信じていいのか、分からないのだろ。
 ほんとに、孤独に、耐えられないのだろ。
 そうして誰彼構わず墜落させてゆくのだと、気づいたときには、もう遅かった。
 落とされた者はもう、這い上がれない。
 這い上がる必要など、感じられないから。

 「そうだな。もっと言って。もっと言ってほしい」
 甘い顔をしてねだってみせるその奥で、どんなに冷静に、計算高く、
今の戦況なぞ考えている。
 深い闇色の目は、容赦しない。甘さなどひとかけらも輝かない。
 「言うてくれないと、分からない」

 目の前にいながら、いない。
 必要だと全身で訴えながら、目の奥で突き放す。
 そんな感覚を、何度、何人に突きつけた。

 「何度でも、言おう、公瑾。あなただけがほしい」
 そうして、そう言ってやった瞬間にだけは、こちらを見てくれる周瑜。
 ほんの一瞬、ほころぶような笑み。
 「本気でほしいと、言っているではないか」
 例えあなたが、本気で応えてくれなくても。
 「皆そう言うよ」
 くつくつと喉の奥で笑われる、その声さえ愛おしいと思うようでは、終わっている。

 「他の、なあんにも、いらないんだって」


 人払いした周瑜の室。周瑜の牀。周瑜の髪。まなざし。香。声。
 どれも自分のものではなく、誰のものでもない。
 かすかな風にゆれる灯を吹き消そうと立ち上がれば、腕をつかんで止められる。
 冷たい手だと思った。
 「灯は、消すな」
 「何故」
 「子敬の顔が見たい」
 何を考えているのか分からない、至極真面目な顔で。
 「あなたの顔も、見えますよ」
 「構わぬ」
 せめてこの一夜を、自分のものにしたいと願っても、
叶えられることなどないと、分かっている。
 だったらその体の一部でも分けてもらえぬか。
 「どんな顔をして、子敬が、」
 衣をすべらせながら、首に回してくる、その左の腕だけでもいい。
 「わたしを抱くのか、見てみたい」
 髪を解いてやろうと差し込んでくる、その右の指の先だけでもいい。
 「悪趣味だと思わないんですか」
 「ぜーんぜん」

 思い切り組み伏せてやっても、笑うばかり。
 こっちはこんなに、本気だというに。
 「子敬とこういうことするの、好きだもの」
 いつもは痕など残さないようにしている白い喉に、きつく紅い徴を残してやりたい。
 「子敬は、」
 めちゃくちゃに声をあげさせて、当分喋れないようにしてやりたい。
 「わたしを大切にするのが、」
 もっと強く抑え込んで、嫌がる格好をさせてみたい。
 「ほんとに、」
 でも。
 「上手だね」
 そうすれば、逃げられるのは、明白ではないか。

 ほしいものは、これだけなのに。

 「臆病なだけです」
 「そう?」
 そうに違いないと、思いこんで、自分を慰める。
 本当に、臆病者めが。

 「子敬がいちばん、上手だと思うよ?」

 だったらどうして、すべてくれないのだ。
 ひとり、たったひとりしか、欲してないのに。
 他のものはすべて、いらぬと言うたのに。
 他の者はすべて、いらぬと。


 ほんのひととき。
 すべるように脱いだ衣を、きちりと着こまれれば、夢は終わりを告げる。


 「子敬、いつまでいるつもり」
 そうやって振り回して振り回して。
 「もう、お帰りなさい」
 お前はただ寂しがる。
 「これから、孔明どのをここに呼ぶから」
 「何のために」
 こんな夜更けに。
 「もちろん、曹を払うための作戦を、話し合うために、決まっているではないか」
 「わかっています、が」
 こんな寒い夜に。

 「ばかな子敬」
 お前の笑い声ひとつさらえない。



戻る

広告 [PR] 再就職支援 スキルアップ アルバイト 無料レンタルサーバー