はらいそからの脱獄


 お前、あれだろ。
 はらいそから堕ちてきたのだろ。


 寝台に横たわったまま見えるのは、うっすら赤くなっている細い足首だった。
 明け方、こうして周瑜が戻ってくるのは、もう何度目のことか。
 父の寝所に呼ばれていたのは知っている。
 知っていて、孫策はずっと気づかないふりをしていた。
 妙にきっちりと着こんだ衣の下に、どんな痕があるのかも想像がつく。
 それでも、何も言えなかった。
 何も気づいていない親友のままで、いたかったのだ。
 いたかったのに、痛かったのに。

 昼から続く小雨のせいで、空気がぬるく湿っていた。
 じわりと重い闇を引きずって、今日も周瑜が戻ってきた。
 薄目をあけると、少しだけ髪が濡れているのが分かる。
 その髪は、あの手で梳かれたのか。
 肩も、腕も、あの手に撫でられたのか。
 自分のまだ若木のような手とは違う、固く強い手を思う。そしてその手に触れられる周瑜。
 だからなんだという。だからなんだというのだ。
 現実は、痛い。酷い。暗い。寂しい。

 虚しい。

 目をつむれば、目蓋の奥に拡がる暗闇。そこでは誰も、笑わない。
 くらく低く笑うのは、自分だけだ。


 だから、周瑜が近づく気配を感じたときには、もう遅かった。


 「伯符、雨がやまないんだ」

 なんで。

 なんで?

 突然にあわされた唇に、呼吸が止まる。
 軽く触れるだけの、たよりない感触。なんで。なんで。
 一瞬、だったのかもしれない。でも、永遠だと思った。

 「伯符、」
 名前を呼ばれて震えたのは、初めてだった。その快感も。
 「起きてたんだね?」
 「ああ、」
 「そう」
 ため息を、ひとつ。

 驚いた顔を見たかったのに、周瑜は、ため息をひとつ、ついただけだった。
 困った、というほどでもない、淡いため息。
 自分に何を知られても、困ることすらないということか。

 どういうつもりで、と聞こうとしてやめた。
 どんなつもりにせよ、周瑜がしたことは変わらない。
 「ごめんね」
 「なにが、」
 「さっきの、」
 自分の唇を指差して、首をかしげてみせる。
 笑ってさえ、いた。
 意味が分からない。なのに、分かりたくない。
 こういうときなんて答えればいいのか、父は知っているのだろうか。


 周瑜に、愛するように仕向けられた父、と思った。
 はらいそから堕ちてきたお前は、皆が自分のことを愛するように、仕向けていくのだろ。
 誰も彼も、そして。
 「俺にも教えてくれるか、公瑾」
 腕を回せば簡単におさまる細い肩。  


 「公瑾、俺、誰かを愛するってどういうことなのか、まだ分からないんだ」
 肩を抱く力が強くなりすぎているのが分かっても、止められなかった。
 「伯符、痛いよ」
 たぶん痛みに眉をひそめているだろう周瑜の顔をのぞき込む余裕も、なかった。
 「教えてくれよ。公瑾、」
 きりきり、きりきり。
 本当に痛がっているのは、どこだ。
 「公瑾、」
 どこもかしこも、ちぎれそうに痛い。
 「これが、愛おしいってことなのか、」
 分からない、と、周瑜のかすれた声が聞こえた。
 その体から力が抜けきるまで、きりきり、きりきり、抱きしめていた。

 くたりとした体、青ざめた顔を、はじめて美しいと思った。
 もし羽根があるのなら、皆が一斉にその羽根をもぎ取るのだろう、美しいお前。



※はらいそ→天国



        



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