錆しい血液


 風が吹くのを待っている。
 風が吹いたら、さようなら。

 ――赤壁の夜。
 周瑜の手管は手慣れたもので、経験は相当豊富なのだろう。
 それなのに、何もかも初めてだと言わんばかりの顔をしてみせる。
 「ちぐはぐですね」
 「なにが」
 諸葛亮のこぼした声を、周瑜は聞き逃さない。
 いつもそうだ。何も聞いてないようで、すべてを聞いている。
 しかしそれは、自分のことを気にかけてくれているからでは、ない。
 「あなたがですよ」
 少しでも多くの情報がほしいという、戦略だ。

 「そんな顔をして、」

 この逢瀬さえも、周瑜にとっては戦略のひとつなのだろう。
 それが諸葛亮にとって、全く違う意味をなしていると、知っていても。
 冷たい指に触れられて、先に声を漏らしたのは自分の方だった。

 「こんな風に、されたら、忘れられなく、なりそうだ」

 「忘れてもいいよ」

 周瑜はひどくあっさりと言ってのける。
 こちらをいっさい見ずに、胸元に押しつけられる頬も冷たい。
 「忘れておしまい」
 恋情なんて、いらない。
 言葉でつなぎとめる代わりに、体でつなぎとめているだけ。
 今ここにいる間は、お互いに裏切らないと、確かめ合っているだけ。
 それさえ、夜が明ければ何の保証もない。
 「今ここにあるものがすべてよ、孔明」
 耳朶を噛みつぶすようにしてやると、ようやく喘いだ。

 信じられるものか。

 私たちは所詮、敵同士でしかない。
 情事の後に、枕を並べていても。
 「孔明、わたしの首、ほしい?」
 「いただけるものなら」
 実質的に呉を統べる、美しき周都督の首根っこ。
 かっ切ってやれれば、どんなに楽になることか。
 愛おしいあなたの、

 「公瑾どのは、どうです? 私の首、お望みですか」
 息詰まるように尋ねたのに、なんのためらいもなく頷かれる。

 「今すぐにでも、はねてやりたい」

 その光景を想像しているといわんばかりに、周瑜はうっとり笑ってみせる。
 かしげた首。乱れた髪。歪む唇。
 月の光に濡らされて、その何もかもが美しく、残酷だった。

 「お前の血しぶきを浴びるのが、わたしであればいいと、思っているよ」

 くっと喉を鳴らす笑い声。
 最高だ、と思ってしまう。
 もう相当、この周瑜に狂わされているのだろう。
 「困ります。でも、」
 冷たい夜だ。冷たい指先が、いっそう感じられる。
 「でも?」
 何一つ音が聞こえないことが、逆に緊張感を呼び起こしていた。
 呉の周都督が、護衛を一人も連れていないわけがない。
 今も、帳の外では、鋭い太刀を構えた男たちがじっと待機しているのだろう。
 周瑜の合図一つで、一瞬で飛び込んでくるはずである。

 「最後に目に映るのがあなたの姿なら、どんなにいいことか」

 武器を持つことなど似合わないように見える手を取って、忠誠を誓うように口づける。
 「それを望む方は、たくさんおいででしょうね」
 今さら、振りはらわれるようなことはない。
 しかし、

 「目など一瞬で見えなくしてやるさ」

 唇だけ歪めて、周瑜は超然と笑う。
 「酷いひとですね」

 「不快だから」

 不快だと言いながら、笑ってみせる周瑜。
 熱ひとつ伝わらなかった手を離されて、お互いの手が空を切って落ちる。

 「私のことが、お嫌いですか」
 「大嫌い」
 悠然と微笑む周瑜が愛おしすぎて、愛おしすぎて、困り果てる。
 「私は、あなたのことが、」

 「聞きたくないな」

 どうしてあなたは、そんな風に、ためらいもなく笑うのだ。

 「聞きたく、ないよ」

 私の血を浴びて、あなたは今宵と同じように笑うのだろう。
 たちのぼる私の血のにおいをかいで、あなたは笑ってくれるのだろう。
 笑っていてほしいのです。

 「もうすぐ風が吹きます」
 「そうだねえ」

 風が吹くのを待っている。
 風が吹いたら、さようなら。

 さようなら、愛おしき君。


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