陽炎


 外は雪景色なのに、あの人は陽炎のようだった。


 明るい夜だった。
 満月の夜には、満月の夜のにおいがする。
 驚いたことに、周瑜の室の前には衛兵が一人もいなかった。
 仮にも、一軍を統率する将である。
 その彼の室を守るものが誰もいないとは、笑止。それとも、周瑜が室にいないのか。
 おかしなことをしていると思う。
 赤壁に来てから、少し自分はおかしくなったのではないかと思う。
 そうでなければ、こんな夜更けに周瑜の室を訪れたりしない。
 やましい考えがあるのかと問われれば、否定できなかった。
 しかし、ただ、こんな夜には語り合う相手がいてもいい。
 それだけかもしれなかった。


 滑り込んだ室では、やはり周瑜が眠っていた。
 くたりと牀に倒れ込み、子供のように眠っている。
 これでは命を狙うものに入り込まれても、気づかないのではないか。
 よけいな心配まで脳裏に浮かんだ。
 「私に殺されても、いいのですか」
 「いいよ」
 つぶやいた言葉に、周瑜が目を開ける。
 明るい夜なのに、瞳の中はなぜか闇色だった。
 周りの空気よりも冷たくて、何も映してはいない。
 「起きていたのですか」
 「今」
 結われることもなく散らばる髪がきれいだと思った。
 触るときっと冷たいのだろう。
 「安心してください。あなたを傷つけるための道具なんて、持っていませんよ」
 両手を開いて周瑜の目にさらす。
 周瑜はまぶしそうに目を細めた。
 「じゃあ、その懐の中の匕首はなに?」
 他意などない、ただ問いかけるための声だった。
 諸葛亮は、戦慄を感じた。
 何より心地よい、快楽のような戦慄だった。
 「なぜ、分かったのです?」
 「長年の勘かなぁ」
 伸びをする周瑜を、ただ見ていた。
 「これは、ただの護身用です」


 「殺してもいいのに」
 「なぜ?」
 「だってもう失うものなんてない」
 大切なものは十七のときに失いました。
 「無理ですよ」
 「どうして?」


 さくさくと雪を踏んでいく。
 二人の間には何もなかった。
 魏の船を見よう。それだけのために二人連れだって、丘へと歩いていく。
 諸葛亮はもちろんのこと、周瑜も誰にも何も言わずに来た。
 そろそろ誰かが心配していることだろう。でも、ここには誰もいなかった。
 一番よく見渡せるのは、別の場所だ。
 だからこの丘には、誰も配置していない。
 どうしてここに来ようと思ったのか、今となっては分からない。
 駆け落ちのようだとつぶやいた諸葛亮を、周瑜は嘲笑った。
 この、冷たい笑顔。
 冬の冷気の中では、いっそう人間味が薄れる。
 人形のように整った顔では、実際何を考えているのか全く分からない。
 だから、願うのだ。そうして勘違いを繰り返す。
 この周瑜の顔に、誰かが命を吹きこむのではないかと。
 願わくば、それが自分でありますように。
 「いっそこのまま、逃げませんか」
 「どこへ?」
 声が、意外に幼い。特別高いわけでも、低いわけでもないのになぜか外見にそぐわなく聞こえる。
 いつもの、凛とした声ではなかった。
 「私と二人では、怖いのですか」
 「なぜ?」
 訊いてばかりだ。周瑜が、自分に興味があるようには思えない。
 「何をされるか分からないから」
 「それは、そうだね」
 首を傾けるしぐさも、まるで子供のようだった。
 曹操との開戦を宣言したあのぎりぎりの状態で立っていた、しかし強い周瑜はいない。
 今は、壊れそうだった。もろい。
 多分これが真実なのだろう。
 「でしょう」
 周瑜の手を取って、口づける。
 手は完全に冷え切っていた。
 この人は、子供のままで時を止めてしまった。
 「それで、何をする?」


 周瑜のくちびるが、諸葛亮の人差し指をくわえる。
 何かが得られるわけではないのに、ただそうしていた。
 何もしない夜があってもいい。
 「いっそ喰いちぎりますか?」
 「それを望むのなら」
 指に歯を立てて、周瑜が笑った。
 瞳の中に月が浮かんでいる。
 決して、自分は映っていないのだと自覚した。


 首筋に歯を立てても周瑜は抵抗しなかった。
 ただ背中に腕が回される。
 欲しいものはここにはない。
 ゆっくりと体を離した。
 「私のことがお嫌いですか」
 「好きじゃない」
 周瑜は眉を寄せて、くちびるを噛んでいた。
 「好きじゃないのに、どうしてそんなに泣きそうなんですか」
 「分からないよ、そんなの」
 どうすれば分かる?


 手を離された子供なんだから、しょうがないよ。
 陽炎の中で待っています。



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