生き方。


 特に意味はなかった。
 ただ、いつも真面目に働いてくれる侍女を、
ただ、ねぎらうつもりで肩に触れただけだ。
 ほんの一瞬。若く美しい侍女だった。それだけのことなのに。
 「忌々しいなぁ」
 周瑜は、そのきれいな顔をゆがめてにっこりと笑った。
 「何がだ」
 「伯符が、あのような侍女に触れること」
 この世のものではないようだ、と崇められる周瑜の笑みだった。
 「あれは、ただ、」
 「なんて忌々しいんだろう」
 孫策が顔をそむけても、周瑜はまだ笑っていた。
 なんのためらいもなく、冷たく。
 「嫌なものを見た」
 思わず触れると、ざんぎりになった周瑜の髪がこぼれ落ちる。
 肩までこぼれたそれは、細く、柔らかく、冷たかった。
 「髪、結わえてやろうか」
 「いやだよ。伯符、へたくそだもの」
 周瑜は笑うのをやめない。
 やめないか。
 泣くなよ。



 いっとう幸せなときは、もうこのまま死んでしまいたいと願った。
 いっとう哀しいときは、世界など滅びてしまえと祈った。
 こんな世界なんて。


 
周瑜に見られたのは、失策だったかもしれない。
 いつもは自分勝手で気ままで、孫策のことなど気にかけないはずの周瑜が、
女が絡むときだけしつこくつきまとってくる。
 特に、関係しているわけでもないのにだ。
 型どおりに礼をして去っていった侍女の背中を見送りながら、周瑜を抱き寄せる。
 ただ触れるものがほしかった。
 「伯符には、あのような女は似合わない」
 掠れた声だった。
 「そうか」
 力を入れると、それに応えて身をよじる。
 真紅の長い爪が、腕に突き刺さるのが何故か、心地よかった。
 「伯符の、妻は、わたしが見つけてくるよ」
 「そうか」
 唇を寄せると、それを嫌がって身をよじる。
 だんだんと、苛立った表情になってくるのがよく分かった。
 「わたしの許しもなく伯符に抱かれる女なんて、ゆるせない」
 「そうか」
 つい、笑ってしまう。
 愛おしいとか、そんなんじゃない。
 そんな気持ちは、とうの昔に忘れている。
 望んでもかなわなかったあの頃に、もう封じ込んでしまっていた。
 だからこれは、愛情なんかじゃない。
 「では公瑾のお眼鏡にかなう女を教えてもら……っ」
 「馬鹿にするな!」
 乾いた音だ。
 と、やたら冷静に考えていた。
 平手で打たれた左頬がどんどん熱くなってくる。
 「公瑾、」
 「理不尽だって、分かっているくせに、なぜ反論しない!」
 怒らせるべくして、怒らせたのは分かっている。
 分かっていながら、怒らせてみたい。
 どうしてだろう。
 周瑜が、自分を見ている。他の誰でもなく、まっすぐに孫策を見ている。
 「伯符は、わたしを、見下しているのか」
 上気した頬、止められない荒い息、握りしめすぎて血が滲みそうな手。
 噛みしめた唇、睨んだ目にはもう涙がにじんでいた。
 「泣くのか、公瑾」
 「泣かぬ!」
 それはもう、叫びだった。
 「伯符など、大嫌いだ」
 「俺は嫌いじゃないよ、公瑾」
 「知らぬ」
 「そうか」
 身を翻らせた周瑜が、室を飛び出していく。
 夕焼けだった。今日は寒い。雪になるのかもしれない。
 走り去っていく周瑜の背がやたらに細くて、思わずうめいた。
 どちらがどれほど傷ついているかなんて、知りたくもなかった。


 薄暗い自室に飛び込んで、牀に顔をうずめた。
 自分がどれだけ理不尽なことを言ったのかは、分かっている。
 あんな風に、あんな風に孫策をなじっても、どうしようもないことも分かっている。
 くだらない。くだらない。くだらない、わたし。
 「伯符なんて、だいきらい……」
 正直に言います。
 わたしは、伯符のことが、憎らしい。
 文台さまにどんどん似てくる伯符を見るのが、怖い。
 また、ひきずられて、しまいそうなのです。また。


 周瑜が出て行った後の室は、やたらに冷えて、
孫策は火を灯してくれる者を呼ぼうとした。
 「誰かある」
 しかし、音もなく入ってきたのは侍女ではなく、太史慈だった。
 「どうした、」
 「いえ」
 答えない太史慈の、うかない表情に気づく。
 「公瑾か」
 ここで誰がいちばんに周瑜を慕っているかといえば、太史慈である。
 誰が見てもそうと分かるのに、周瑜だけは気づいていないらしい。
 それが少しばかり哀れで、滑稽だったが、誰も揶揄したりしないのは、
ひとえに太史慈の愚直なまでに真面目な性格のせいだろう。
 「先ほど、回廊を走って行かれるのが見えましたので」
 ため息がこぼれるのを止められない。
 どうしてだろう。
 「あれは泣いていたか」
 「いいえ」
 太史慈が目を伏せる。
 「そうか……子義、」
 「はい」
 「公瑾のところへ、行ってくれるか」
 「御意」
 礼の仕方が清々しいと、何故か今気づいた。



 だんだんと暗くなる室にも、灯りをともす気なんて一つも起こらない。
 今、こんな気分で、明るいところになんていられない。いられやしない。
 ひどくいらいらしているのが自分で分かっているのに、どうしようもなかった。
 あなたのいない世界なんて。
 世界じゃありません。


 自分が間違っているとは、思わない。
 間違っているとしたら、周瑜の方だ。
 いつまでもいつまでも亡き父、孫堅の思い出にすがりついて、
一歩も踏み出そうとしない、周瑜の方だ。
 救われない。救われる気も、ないのだろう。
 生き方ひとつ、知らない。
 周瑜が、自分に父を重ねて見ているのは分かっている。
 それでも孫策は、放っておいた。
 自分が欲しいのは、周瑜の軍才、皆を引っ張っていく力だけだ、
それ以外のところに興味なんかない、と思っていた。
 思いこんでいた。
 室に漂う、周瑜の甘い残り香を追い払いたくてたまらなかった。
 どうしてだろう。



 人の気配を感じて、周瑜は伏せていた顔を上げた。
 入ってきたのは太史慈である。すい、と音がするようだった。
 「何用か」
 「まだこのような時刻に室を暗くしておられるので、どうなさったのかと」
 眉をひそめる太史慈が、室の入り口に長い影をつくっている。
 なぜか、その影を踏みたくなって、周瑜は牀を降りた。
 「少し、気分が悪いだけだ」
 太史慈の前に立つと、いつも目の中をのぞき込まれる。
 「熱はないようですね」
 そう言って微笑んでくれる太史慈の目を、同じようにのぞき込めば、
もう何もかも知られているのだという気になった。
 指先から力が抜けていく。立っているのが億劫だった。
 「子義は、やさしいね」
 うまく笑えたかどうかは分からない。
 「どうしてだろう。子義には、素直になれるのに」
 ただ、笑えるように努めた。目の前の太史慈のために。
 だから、困ったように息をついた太史慈に腕を引かれて抱きしめられるのも、
嫌じゃなかった。
 「子義の腕の中はあたたかい」
 ただ嬉しかった、のに。
 太史慈の腕が固くこわばるのを感じた。
 「公瑾どのが、私には素直になれるのだというのなら、」
 「なに?」
 「それは、私のことなど、気にかけておられないからです」
 囁かれた耳元は、痛い。
 「そんなこと、」
 「殿も、公瑾どのも、気づいているのに気づいてないふりをするのが下手だ」
 触れられた耳元は、熱い。
 「殿のところに、お戻りになられた方がよい」
 こぼれてくる言葉に、えぐられるのは何だったか。
 「そんなこと、子義に、言われる筋合い、」
 「ないですか?」
 そんな風にため息を、つくな。


 「今日は冷えるな」
 今ごろ、周瑜は太史慈に慰められているのだろう。
 あるいはその腕に抱かれているのやもしれない。
 くつくつと笑いがこみあげてくる。
 手放したのは、突き放したのは、どっちだ。


 室を飛び出したものの、どこに行けばいいのか分からない。
 太史慈に言われたとおりに孫策の室に行くなんて、おかしいと思う。
 憎いのだ、そうに決まっている。
 わたしはすべて、あのひとのものなのだから。
 ずっとそうやって生きていくって、もう決めていたのだから。
 孫策に惹かれるようなことは、あっては、いけませんよね?


 
そろそろ月が出るだろうか。


 冷たい。また裸足で飛び出してしまった。


 
迷っているのは、どっちだ。


 助けて。神様。
 行くべきところへの、行き方が分かりません。


 どうしてだろう。


 生き方が分かりません。


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