風車


 「熱すぎやしない?」
 周瑜は、唇から杯を離した。
 一口たりとも飲んでいない。ちらりと舐めただけだ。
 「そんなには熱くない。お前は猫舌だからな」
 「にゃあ」
 「莫迦」
 孫策の自室、二人きりだからなのか、牀に腰掛けた孫策の隣で寝そべる周瑜は、まるで猫だった。
 それも、ひとの言うことなんか聞く耳もたない我が侭全開の、
それでいて自分に都合のいい甘え方を熟知している、やっかいな猫。
 その猫の腕が、ゆっくりと首に巻きついてくる。
 「酔ったか?」
 「一口も飲んでいないのに?」
 「酒の匂いに酔うことだってあるだろう」
 「ないって知ってるくせに」
 後ろから抱きつかれると、背中が暖かかった。
 そのままくたりとくっつかれて、首の根もとを囓られる。痛くはなかった。
 「もう酔えないよ、ずっと前から」
 低くもない、高くもない声だった。何の感情も読みとれない。
 「公瑾、」
 「外に出ませんか。月が見たい」
 ああ。今夜はたぶん、たぶん、いやな夜だ。


 外は寒いというので(冬だ、当たり前だ)上掛けを巻きつけてやった。
 「抱き上げていってやろうか、姫」
 周瑜は、もともと性別を感じさせない顔立ちだが、女装がよく似合う。
 本人も、それは熟知しているのだろう、よく女の格好をしていた。
 本来、あり得ないことである。
 なのに、誰も止めなかった。
 周瑜のこの奇行は、孫策の父、孫堅が身罷ってすぐに始まったものだった。
 「軽いな、相変わらず」
 背中と膝の下に腕を入れると、簡単に持ち上がる。
 軽い振動で、ざんばらに下ろしたままの髪が流れた。
 さらさら、鳴る。
 「このようなことをされても、嬉しくない」
 そう言いながらも周瑜は降りるそぶりは見せなかった。
 「楽ちんではあるがな」
 しかも、偉そうだ。
 「お前、それが主君に対する口のきき方か」
 「だとしたら、どうしますか。伯符さま」
 くつくつと笑う周瑜が、かすかに足をふる。
 左足にはめられた足環が音を立てた。昔、孫堅が贈ったものだ。
 周瑜は、孫堅から与えられたものを何一つなくしていない。
 「それ、きれいだな」
 「うん」
 もう何年も経つ足環も、きれいに磨かれていた。
 「父上だけか、まだ」
 「無理なのですよ」
 手の爪も足の爪もすべて真紅に染めて、周瑜は無理やり笑っていた。
 無理をしているのを隠さないのは、ひどい。
 「俺じゃだめか」
 こんな陳腐な台詞。
 「だめ」
 一瞬で片づけられてしまうと、分かっているのに。
 抱き上げる直前に周瑜が手に取った、風車がくるくる回っていた。
 どこにそんなものがあったのか、知らない。


          *


 周瑜が言ったとおり外は寒くて、これは早々に引き上げようと思った。
 月はただ、白い。満月にわずかに足りない月だった。
 二人分の体重が、枯れ草に柔らかく沈んでいた。
 「伯符と文台さまはさぁ」
 適当なところで降ろそうと思ったのに、周瑜は履き物を履いておらず、
結局抱き上げたままでの月の鑑賞となった。
 「すごく、匂いが似てる」
 「うん」
 「月の匂いがする」
 首元に、すんすんと顔を近づけられると、こぼれた髪がくすぐったい。
 「どんな匂いだよ、それ」
 「分かんない」
 伸びてきた手に、耳をつままれる。爪を立てられた。痛い。
 周瑜の指はそのまま顎までたどり着いた。
 「なのに、なのに、」
 「うん」
 「全然ちがう。同じ匂いなのに」
 「うん」
 周瑜の表情は見えなかった。顔が押しつけられている。
 「文台さまにはあったものが、あなたにはない」
 あのひとには顎髭があってさぁ、ざらざらして気持ちよかったんだよ、周瑜は続ける。
 「うん」
 分からなくて言っているのではない、周瑜は。
 そのように残酷なことを言えば、孫策が傷つくことは分かっている。
 分かっていてやっているのを、孫策もまた分かっていた。
 「なんで?」
 ひどすぎる。
 「公瑾、寒くないか」
 「全然」
 どうしてだろう。


 「伯符、お願いがあるんだけど」
 「何だ?」
 帰るかと聞いたら帰らないと答えた周瑜のために、もう少しだけ外にいることにした。
 室を出る前に護衛に言ってきたので、ここには誰も来ない。
 腰を下ろして、周瑜を抱き込む。
 ただそれだけのこと。
 「一生のお願い」
 かすれた声だった。今日は風がない。腕の中の周瑜は、甘い匂いがした。
 「聞いてくださる?」
 「だから、何だよ」

 「わたしを殺してくれませんか」

 ごく、自然に。

 「断る」

 もう何度も何度もされたお願い、何度もくり返したやりとりだった。
 まるで儀式、形式にそって決まった答えを言うだけの。
 「別に、今ここで、とは頼んでない」
 「お前は俺に、親友を殺させるのか」
 親友。
 「親友だから、頼んでるのです、伯符」
 「黙れよ」
 「どうしようもなくなったときはさぁ、伯符がいい。ちゃんとわたしの始末をつけて」 
 めちゃくちゃで、自分勝手でどうしようもなくて、愛おしくて、もういやだ。
 なんでこんな、自分のことしか考えてないやつのことが大事なんだろう。

 「ねえ、お願い。いつものあれ、やって」
 「ちょっとだけだからな」

 いつものあれ、首をしめるふり。
 これはいつから始まったんだったか。
 首に両手をかけた途端、周瑜は陶酔しきった表情を見せた。
 このままねじ切ってやりたかった。お前なんか。
 お前なんか。お前なんか。
 「お前は、俺の大事な親友だ」
 こんなことが言いたいんじゃないのに。
 「ありがとう、伯符」
 笑うな。
 そんな嬉しそうに、笑うな。


           *


 ひどく性急に脱がせて、奪いにかかる。
 無数の痕を残してやりたかった。
 「伯符、月、せおってる」
 「黙れ」
 唇ならば、唇でふさげばいい。でも。
 「哀しいね」
 「黙れよ」
 哀しみは何でふさげばいい?
 周瑜の、投げ出された両手が草をつかむ。
 そのすぐ側に風車が落ちていた。
 真紅に塗られている。
 反り返った首筋に、噛みつくようにくちづけた。
 ぎりぎりまで足を折り曲げさせる。
 「ごめんな」
 って貫いた。


 「ごめんな」
 「なんで謝るの?」
 謝るのなら、最初からしなきゃいいのに。
 脱がせた衣を、着せてやろうとした手を振りはらわれる。
 抱いているときはまったく抵抗せず、素直に応じてくるのに、その後はすぐに態度が硬化する。
 いつもだった。
 草の上に敷かれていたせいでぐちゃぐちゃになっていた衣を手のひらで伸ばしながら、
周瑜はため息をついた。
 「なんでだろう、哀しいって言ってしまった」
 「さっき?」
 落ちていた風車を拾ってやると、今度は素直に受けとった。
 「哀しいって、言わないようにしていたんです」
 満足するくらいには伸ばせたのか、周瑜は、慣れた手つきで手早く着ていく。
 名残惜しさなんて、一つも感じさせなかった。
 「なんで?」
 「口にすると嘘になるような気がしたの」
 一度だけ、声を我慢しようとした周瑜に噛まれた肩が痛い。
 手をやると、かすかに血がにじんでいた。
 周瑜もその傷に気づいたのか、少し笑った。
 「そうか」
 つられて笑うしかなかった。
 笑うことしか、できない。
 「この風車」
 周瑜の爪と同じ、真紅に塗られた風車を、愛おしそうに見つめる目を見ていたくなかった。
 「風もないのに回るのね」


 抱き寄せたくてたまらなかったのに、かなわなかった。
 拒まれているのだと、分かっている。
 寒いと感じ続けていたことを、今やっと思い出した。



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