月のささくれ


 かすかな衣擦れの音で、周瑜は目覚めた。
 ほんとうにかすかな音だったのに、目覚めてしまったのだった。
 最近、こんなことがよくある。
 妙に神経が研ぎ澄まされているというか、不安になることが多い。
 なんとなく、眠るのが怖かった。
 目覚めたら一人になっているような、そんな気がして、眠れない。
 「文台さま?」
 身体の奥にあったはずのぬくもりが、徐々に失われていくのを感じる。寒い。
 隣にいたはずの孫堅が、今はなぜか窓の傍にいる。
 それだけで、ひどく寒く感じる。
 孫堅は背中を向けて、月を見ていた。満月にはわずかに及ばない月だった。
 「目が覚めてしまったか?」
 すまないな、と苦笑しつつも、孫堅は月を見たまま、こちらを向かなかった。
 寒い。冬だ、当たり前だ。
 上掛けの中に潜り込んで孫堅の背中を眺めた。
 「よい月だな」
 孫堅の背中は剥き出しで、その背中は他の誰より広かった。
 先ほどまでなされていたことを明確に示す傷痕は、自分のつけたものだ。
 「満月じゃないのに?」
 細く細く、それでもがむしゃらに引かれた爪痕。
 赤い線が無数に走っていて、数えることができない。
 「大人になれば分かるさ」
 「大人になんか、」
 数え切れないほどの線を残さないと、不安で不安で不安で不安で死んでしまう。
 「なんか、」
 「なんか?」
 「なれるかなー」
 少しだけ無理して笑った。
 どんなに多く傷をつけても、ほんとうに深い傷は一つたりともつけられなかった。
 孫堅がこちらを振り向くのだけ、目で追った。
 「瑜、服を着せてくれないか?」
 最近は不安すぎて、おかしい。


 牀からすべるように降りる。
 落ちるように、というのが正しかったかもしれない。
 幸い、足腰に支障はなかった。もう慣れた。
 「猫のようだな」
 「猫はもっと愛らしいものですよ」
 「足音が鳴らない」
 「訓練されていますから」
 (愛されてないわけじゃないのに)
 「機嫌が悪いのか」
 牀の下に落ちていた衣を拾い、孫堅に近づく。
 (むしろ、愛されすぎているほどなのに)
 「そんなわけ、ないでしょう」
 笑うのなら得意。
 (なのになんでこんなに)
 不安なんだろう。
 (いいえ、ちがう、きっと、きっと寂しいだけなんだろう)
 寂しいんです。(きっと)
 寂しいだけなんです。(きっと)
 くちびるが落ちてくるのを、一瞬目を開けて、確かめずにはいられなかった。
 「お前のことは、よく分からんよ」
 「わたし、きっと貪欲なんです」


 濃い群青の衣を広げると、自分の両手よりはるかに長い。
 それが嬉しくて、思わず笑った。(笑ってばかりだけど)
 右手を通してやって、それから左手を通す。
 さらりとして触り心地のいいその布ごしにも、実用的な筋肉がしっかりついているのが分かる。
 首元を整え、襟を合わせた。なぜか牀の上にあった帯を拾う。
 帯を巻こうとしたところで、孫堅の手に止められた。
 「そろそろ自分でやる」
 その手に、そっと指をからめて首をふった。
 何もかも、したかった。
 できることならすべて、したかった。
 「わたしにやらせてください」
 今しておかないといけないと、思った。
 抱き寄せられると、考えるのをやめてしまいそうになるけど。
 不自然な体勢のまま、孫堅の帯をきつく結んだ。


 いつも触れられているみたいに、耳から頬にかけて順番にたどった。
 顎までくると、ざらりとしている。硬い髭が指を刺した。
 「あんまり触ってると、指が荒れるぞ」
 周瑜の指が動くままにまかせていた孫堅が、唇の端を持ち上げた。
 「そんなくらい」
 「お前の指先が荒れているのは、よくない」
 「……やめてよ」
 「ささくれ一つ、作るな」
 自分は従軍しているのだ。お人形じゃない。
 (望んでお人形になろうとしているようなものだけど)
 捕まえられた指が、孫堅の口に運ばれる。
 今度は、お返しだとばかりに、いつも周瑜がしているように舐められた。
 「お前を連日ここに連れ込んでいるからな。今日は策ににらまれた」
 思い出し笑いらしい。
 くつくつと笑うたびに舌が動いてくすぐったい。
 「伯符は、勝手にしろって言うけど?」
 「そうもいかんのだろう」
 「父上を取られてる気分なのかな」
 (伯符は文台さまのことをほんとうに尊敬しているのだし)
 「瑜、違う」
 孫堅が笑う。
 「策は、お前を俺に取られたくないんだ」
 「そんなこと、ないと思う」
 だって今夜だって、文台さまのところに行くって言ったら、笑って送り出してくれたのだ。
 「そんなこと、ありませんよ……ないよー」
 まだ、大丈夫。
 わたしはただ、わたしの寂しさを埋めたいだけ。(きっと)


 腰に回ってきた腕に手を乗せると、片方の手で髪をかき回された。
 「よい匂いがするな」
 そのまま強く抱きしめられる。
 「着せてさしあげたばかりの衣、乱さないでくださいよ」
 さらに強く抱きしめられる。
 なんでだろう。どうしてだろう。
 「どこまでもお前を連れて行きたいと、思っている」
 「死ぬときも一緒?」
 「それは……」
 愛されるほどに、近くなるほどに不安です。


 失えません。
 「月が見たいな」
 「月は好きか」
 「ええ、あなたに似ていて、」
 その上、失う心配がないから。
 (なにそれ)


 「では、俺が死んだら、あれを俺だと思え」


 「たまんないな、もう。そんなことあなたが言うなんて」


 おかしくておかしくてたまりませんでした。
 かなしくてかなしくて、たまりませんでした。
 「あなたそんな気取ったことを言うんですね」
 「おかしいか」
 孫堅が、少し照れたように笑った。
 胸が痛い。ささくれができるのは、指だけじゃない。
 「全くもって、おかしい。おかしすぎるよー」


 もうこのときから予感はしていたのかもしれない。


 寒いです。寂しいです。不安です。
 寒かった。寂しかった。不安だった、あのとき。

             *

 孫堅が逝った日の月が、どんな形だったかは覚えていない。
 ただ、涙のかれた目で見上げたとき、ざらざらしている、と思った。
 あ、月にもささくれできたんだ、ってどうしようもないことを思った。
 あんなに作るなって言われた、ささくれ。



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