アスピリン


 頭が痛い。息が苦しい。どうしようもない。


 「お前が従軍してから、」
 孫策が目を細めて呟いた。笑っているわけではない。
 「なんですか」
 胡座をかいた孫策の膝の上には、周瑜の頭が乗せられている。
 先ほどから、一人酔いつぶれて眠ってしまっていた。
 片手に、飲み干した酒杯を握りしめたままだ。爪が紅い。
 「お前が従軍してから、こいつはお前に懐いてばかりいるんだ、公瑾は」
 ただ静かに語られた言葉だった。
 普段の、血気盛んな孫策ならば決してしないような表情だった。
 「そんなこと、別に」
 「そんなこと、あるから言っている」
 孫策の指が、無造作に結わえられた周瑜の髪をすくと、簡単にほどけた。
 まっすぐ素直に伸びた黒髪が、ばらばらと音を立てるように散る。
 床にまでこぼれていた。
 「この口が、子義が、子義がって、さあ」
 くつくつ笑い、そのまま指を周瑜のくちびるにすべらせる。
 周瑜が眉をひそめるのを見て、孫策も同じように眉をひそめた。
 「お前のことばかり話すんだ」
 何も言えなかった。
 「俺はたぶん、お前に嫉妬しているだけなんだけどさぁ」
 甘いだけの酒を二度三度と舐めて、今度こそ孫策が笑う。
 つられて笑いたくなるような、そんな笑みではなかった。
 「それはおかしい」
 「何がだ」
 「私と共にいるとき、公瑾どのはずっと殿のことを話しておられます」
 事実だった。
 事実、周瑜が自分に話すのは孫策のことばかりだった。
 少なくとも、そうだと認識している。
 伯符が、伯符が今日、伯符が昨日。伯符が、伯符が伯符が。
 孫策のことを話すときの周瑜の表情はいつも、穏やかでどうしようもなかった。
 あんな顔をさせるなんて。
 「嘘を言うな」
 「本当です」
 現に今も、周瑜がいるのは孫策の膝の上ではないか。


 自分の入る余地などないのだと思っている。
 ほつれた髪をいじりながら、言葉に出さずに愛しいのだと言う周瑜の顔ばかり見てきた。
 笑顔を見られるだけで幸せなんて言ったのは誰だろう。
 そんな境地に達することなど、できない。
 頭が痛い。
 「俺たちは二人とも、」
 できない。
 「お互いに嫉妬しているだけなんだ」
 「私は、そんな、」
 できない。
 「それでもこいつは、」
 ふと、周瑜の目が開いた。
 孫策は気づいていない。
 「俺たちのことなんか見ていないんだ」
 「殿、」
 周瑜の目が閉じた。
 「こいつが見てるのは、追ってるのは、父上の亡霊だけだ」
 握りしめられていた酒杯が、細い指から落ちて、割れた。
 紅い爪先が一瞬、動く。
 「ああ、危ない」
 「あ、」
 そのまま欠片の上にすべり落ちようとした周瑜の手をすくい、代わりに孫策の手が欠片にささる。
 「……っう、」
 手の甲に、浅くはない傷ができていた。
 真っ赤な血がこぼれ落ちていた。
 「殿、手当を」
 どうしてか。
 「分かっている」
 その手が、その傷が、その血が、うらやましくてうらやましくてたまらなかった。
 「結構深く切ってしまったな」
 あれが自分であったなら。
 「すぐに準備します」
 あさましい。あさましい。
 「頼む」
 何を。
 そうだ、頭が痛いんだった。


 眠れるはずもなかった。
 目を閉じるたびに、あのとき目を開けた周瑜の表情と、孫策の手の傷が思い浮かんでくる。
 そんなもののことを考える必要はないと、何度言い聞かせても無駄だった。
 乾いた風の夜だった。
 室の外に出る。
 細い三日月が出ていた。
 どうしようもない。どうしようもない。
 ふらふらと目指してしまったのは、周瑜の室の方だった。
 こんな時間に、どうしようというのか。
 何もない。
 静かな夜だった。
 だから、声が、響く。
 掠れた小さな声でも、室の外まで漏れ聞こえてくる。
 「……っ」
 押し殺した声でも、すべて聞こえてくるのだ。
 「公瑾、」
 「あ、」


 何をしているのかは分かっている。
 分かっていながら、入り口にかけられた薄布の隙間からのぞき込んだ。
 「伯符、はく、ふ、」
 灯もないのに、周瑜の顔が見えた。
 眉をひそめて目をつぶって、何かを追っているのは明白だった。
 「はくふ……」
 白い手が、居場所を求めて孫策の背を這う。
 何も掴んでいなかった。
 「はく、ふ、」
 華奢な足が弧を描く。
 足の爪も、深紅に染められていた。花のようだった。
 口の中に、血の味が広がる。
 「はくふ、」
 「公瑾、無理に俺の名を呼ぶな」
 「……っ」
 ぱたりと周瑜の足が落ちた。
 「文台さま……」
 ひどすぎる。
 「文台さま、文台さま、文台さま、ぁ」
 孫策の背に、周瑜の爪が立てられているのが見えた。
 ひどすぎる。
 周瑜の頬に、幾筋もの涙が伝っている。
 孫策の表情は、見えなかった。それに安堵する。
 それを見て耐えられる自信がなかった。
 「ぶんだいさま、ぶんだいさ、ま……ぁ」
 まるで今まで呼んでいた孫策の名前を打ち消すかのように。
 「ごめんね、ごめんね」
 「謝るな」
 「ごめんね、伯符……ぅ」
 ひどすぎる。ひどすぎる。
 柱に爪を立てた。ぎりぎりと引っかく。
 その痛みでも、息苦しさは紛れなかった。
 気がつけば爪が食い込んでいた。
 「誰だ?」
 頭が、痛い。


 「あ、」
 「子義か」
 孫策の声は、落ち着いたものだった。
 「殿、」
 体を起こして、こちらに向いた。
 笑っていた。
 「去れ」
 顔を歪めて、笑っていた。
 「御意」
 ひどすぎる。
 肺の奥深くから息がこぼれた。
 三日月の光さえ刺さって痛い。


 朝が来るのが怖かった。
 「どうしたの、子義どの?」
 回廊ですれ違いざまに声をかけてきた周瑜は普段通りで、おかしいのは自分だけだった。
 「昨日、眠れなかった?」
 目がうつろだよ、と言って周瑜は笑っていた。
 「昨日の夜は、」
 「なに?」
 何もなかったのだと。
 「いえ、何でもありません」
 何でもないことなのだと。
 周瑜だけが、ひどい。ひどいと分かっている。
 頭が痛かった。
 「子義どの」
 「はい」
 周瑜が首をかしげると、柔らかい黒髪が背中に流れた。
 「あなたが泣いたって」
 困ったように笑う周瑜を。
 「どうにも、ならないんだよ」
 壁に押しつけたのは衝動だった。
 「泣かないでよ」
 「分かってます」
 抱きしめた背中の細さに、どうしようもなかった。
 「分かってます、から」
 このまま、なんて思いもしなかった。


 遠すぎる。


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