愚美人草


 ゆらり。
 と揺れたのは、もちろん自分ではなくて灯火だった。
 周瑜が入ってきたときに巻いた風が、室にただ一つ灯る火を揺らした。
 「食事でも、しない?」
 肩に触れる寸前で適当に切られた黒髪が、揺れる。
 それからちょうど三秒遅れて、細い首が傾けられた。
 「どういう意味ですか」
 気配などしなかった。
 こういう入り方に、慣れているのだと思った。
 「敵ではない、という意味よ?」
 「私が敵ではないと、確認したいのですか」
 この場にふさわしいのかどうか、真っ赤な衣に身を包んでいた。
 薄い袖が、細い手首を隠している。
 椿の花の色だった。
 「いいえ」
 そう。この人がいる限り、負けることはないのだと、呉軍の兵たちが言っていた。
 華奢な体躯、年齢を感じさせない容貌。
 戦など知らぬ存ぜぬで通せそうな、純心無垢に見える?目の奥。
 これが、常勝の都督だというのである。
 可笑しい。
 「仲良くしてよ、ね?」
 それでも。
 勝利の神の微笑みを、胸にかかげて笑う人に。
 言えやしない。言えやしない愛を片手に。
 「誓います」
 くちびるだけ合わせると、甘ったるい酒の味がした。
 ような気がする。


 愛?
 なにそれ?


 美しいものは美しい。
 そう納得するしかない。
 「もうすぐ、食事を持ってくるように言ってあるのだけど?」
 「お預けですか」
 床にこぼれた髪が扇形に広がるのが美しいと思った。
 その下に、真っ赤な薄絹が弧を描く。
 「床は、背中が痛いし」
 細い指は、全く力を入れられることなく床に置かれている。
 表情を変えない目は、熱くも冷たくもなかった。
 「私を前菜にするのは、もったいないと思うのだけど?」
 目が細められる。
 真紅に染めた爪に、頬を引っかかれた。
 血は出なかった。


 「ともに食事をするというのは、いいね」
 次々と運びこまれてきた皿は、どう見ても二人で食べるには多すぎる量だった。
 「仲良くしているような気になるもの」
 「そうですか」
 「ちがう?」
 それなのに、周瑜が手を付けているのは果物ばかりだった。
 肉にも魚にも、一切手を伸ばしていない。
 「分かりません、」
 「そう、」
 時季はずれの桃の薄い皮を指でつまみ、器用に剥いている。
 「こんなにたくさん並べて、食べきれないでしょう。それに、さっきから果物ばかり、」
 「食欲がないのだよ」
 むくれたふりをされても、困る。
 「それなのに食事に誘ったのですか」
 「良いではないか良いではないか」
 桃の果汁が、周瑜の指から腕まで伝っていた。
 その手を取っても、抵抗しない。
 「でも、少しは食べないと」
 その指を口に含むと、甘かった。わざと歯を立てても、何も言われなかった。
 「倒れてしまいますよ」
 「大丈夫、」
 焼いた薄い肉を直接、指でつまんで周瑜の口元に運んだ。
 一瞬躊躇してから、舌を出して口に運ばれる。
 「もっと、頂戴」
 目線は下の方で、表情は分からなかった。
 「え?」
 「食べさせてくれるんなら、食べる」


 結局食べきれなかった皿を片づけさせた後も、周瑜は出て行こうとはしなかった。
 新たに酒を持ってこさせて、ただ杯を舐めている。
 「勝利の美酒を味わうには、まだ早すぎませんか」
 「そんなことは、ないよ」
 側に寄っても、何の反応もなかった。
 「勝つという自信がおありなのですか、」
 「さあ?」
 ざんばらに散った髪に指を差し入れると、冷たかった。
 「あなたがいると、負けないのだそうですよ」
 耳だけがなぜか熱かった。
 「そうらしいね」
 ここは微笑むところなのかどうか、そんなことは全く気にしていないようだった。
 ただくちびるの端を上げて笑う。
 その美しさが、畏怖させる。
 風が吹いた。
 「髪、切ったの、もったいないです、よ、」
 梳いても梳いてもするりとすべり落ちる。
 「これ?」
 「ええ」
 「捧げた」
 好いても好いてもするりとすべり落ちる。
 「何、に?」
 「呉の勝利のための、祈りに」
 くつ、と音を立てて笑ったのはやはり周瑜の方で、諸葛亮は何も言えなかった。
 入り口にかけられた厚い幕が、風をはらんで揺れる。
 乾いた、ぬるい風だった。
 遠くに、細い月が見えていた。
 「気持ちのいい風だね」
 ありえない。
 「この時期に?」
 「東と南の間から、ねぇ」
 お祈りが通じたのだと、笑うのだ。
 「火種を用意しないとねぇ」
 「火を、使うと言うのか」
 狂っている。
 そう、作戦として間違っているという意味ではなく、ただ、ただ。
 「私の勝利のために、祈ってよ」
 呉の、軍の勝利ではなく、ただただ周瑜の勝利のために。
 周瑜の、赤すぎる衣の裾が、大きく舞い上がった。
 生ぬるい風をはらんで、赤い世界が広がった。


 「公瑾どの、」
 「なに?」
 「この戦が終わったら、私の元に来ませんか」
 先ほどからずっと、室の外に人の気配があった。
 「それ、私に利はある?」
 外に誰かが控えているのは間違いないだろう。
 「私は、上手いですよ?」
 「なにそれ?」
 けたけたと笑い出す周瑜の手を取って立ち上がり、そのまま壁に押しつけた。
 こうすれば見下ろすばかりで、自分の方が有利な、はずだった。
 「手に入れたいのならば、力ずくで攫えばよい」
 見上げてくる目に、強さなどなかった。
 「そうすれば、素直に組み敷かれてくださるのですか」
 耳に寄せたくちびるに、少し反応しているようだった。
 息がこぼれて、右肩に落とされた。
 「いや、」
 「え?」
 「全力で、抵抗してみせるよ」
 息の熱さだけが確かだった。
 「外で殺気を立てている人と、二人がかりで?」
 「子敬のこと?」
 くちびるを舐めて周瑜が笑う。
 赤い舌に、ずるいと思った。


 「子敬どのと二人でなんて来なくても、」
 「うん」
 「あなたなら、私一人殺すくらい簡単でしょう?」
 「うん」
 胸元から下に手をすべらせると、案の定固い感触があった。
 匕首なのだろう。
 「私、を。殺しに、来られたのですか?」
 そこはやはり冷たかった。
 「それは、まだ」
 まだ、と言いながらまだ笑っていられるのだ。
 こんなにも純粋に、笑っていられるのだ。
 「あなたになら、殺されても、いいですよ?」
 赤い袖が、目に痛すぎます。
 「そう言うと思った、」
 するするとすべる袖のせいで、腕から逃げられた。
 「そんなのつまらない」
 なんで。


 「孔明どの、もっと強くなってね」
 周瑜がくるりと弧を描く。半端な髪が遅れて舞う。
 「どうしたら、」
 少し遅れて赤い袖が、裾が舞った。
 「どうしたら強くなれますか」
 「自分で考えなさい」
 今まで外で待機していたのであろう魯粛が現れて、周瑜の手を取った。
 自然な仕草だった。
 導かれるまま、周瑜はその腕の中に収まる。
 魯粛とは、目が合わなかった。
 「強くなって、私を攫いにくればいい」
 顔だけこちらに向けて、周瑜はなおも言葉をこぼす。
 「それで私が敵わないほどなら、この舌、噛み切るやもしれぬ」
 何がおかしいのか、笑ったのは魯粛だった。
 「ああ、でも、もったいないなぁ」
 「何が、ですか」
 「この舌、せっかくさっき、美味しいものを食べたのにねえ?」
 全ての時間が止まったのは、周瑜のせいだった。
 真っ赤な衣、ざんばらの髪。
 細い月を背に、男に抱かれて笑う。
 周瑜のせいだった。
 「襲撃は明朝」
 「諾」
 「あのご主君とともに、逃げる準備は万全?」
 乾いた風の中、一人冷たい周瑜のせいだった。


 愛なんかじゃないんです。



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