ブレインシュガー



 「何だ、その格好は?」
 音もなく入ってきた周瑜に、思わず声をかけた。
 晴れている。
 どうしようもなく晴れている。
 「暑かったから」
 逆光で、周瑜の姿がぼやけて見えた。
 「暑かったから?」
 「泳いだ」
 頭からずぶ濡れ、ほどけかかった髪から、とどまることなく水滴がこぼれ落ちている。
 烏の濡れ羽色も何も、実際濡れているのだから。
 甘い。甘すぎる。
 「泳いだ?」
 「そう」
 衣一枚、乱雑に着流して、体の線がすべて露わになっている。
 こういうところが、無防備だというのだ。
 「それで、その格好のまま、ここまで来たのか」
 「そうだけど?」
 悪い?とでも付け加えられそうな口調である。
 頓着しない。
 何ごとにも、頓着しないのだ、周瑜は。
 「お前には羞恥心の欠片もないのか」
 近くの河からここまで歩いてきたのなら、ずいぶん多くの視線に晒されただろうに。
 「ないんじゃないかな」
 適当にかわされて、交われない。
 「これでもずいぶん乾いた方なんだけどねぇ、」
 意味が、違う。


 あなただけでいいから。


 「それで、何の用だ?」
 「用がないと、ここに来てはいけない?」
 くちびるだけ歪めて笑っている。
 こんな表情まで浮かべるようになった。
 従軍してから後、孫策も周瑜も、見違えるほど大人びた。
 造作がどう変わったというのではないが、浮かべる表情や仕草、そういうものから幼さが抜け落ちつつある。
 特に、周瑜の方は、こぼれ落ちるようだった。
 固いつぼみを開くようにほころび、深紅の花が咲いた。咲き乱れた。
 いつの間にやら染められるようになった爪は、どれも深い紅に彩られている。
 「見れば分かるだろう。忙しいんだ」
 手にした書簡を振ってみせても、見ていない。
 「おい、」
 ぺたりと首筋に張り付いた髪が邪魔なのか、適当に結わえようとしていた。
 そんな濡れた手では、無理だ。
 「大人は大変だね」
 髪がからまっているくせに、平然としたものだった。
 「都合のいいときだけ子どもになるな」
 「子どもだよ?」
 十六。
 今では、誰も周瑜を子ども扱いなどしなかった。
 誰も。
 「……誰といた?」
 誰の前で、そんな姿でいたというのか。
 「伯符だよ」
 何が言いたいのかは分かっている、そういう笑みだった。


 一人にしないで。


 「伯符は、ねえ。まだ大丈夫だよ」
 まだ。
 そんなことがあり得るのだろうか。
 「策も、もう十六だぞ。お前がそんな姿でうろうろしたら、」
 「どんな姿?」
 「分かっているくせに聞くな」
 引き寄せると、素直に膝に乗り上げてくる。
 肩に置かれた手が、冷たかった。
 「濡れてしまいますよ?」
 「良い」
 こぼれ落ちた水滴が、衣の繊維に浸透していく。
 首に回された腕が、冷たかった。
 「ずいぶん心配してくれるんですねぇ」
 甘い、掠れた声。
 こんな風に、話すのは、自分の前だけでいいと思った。
 周瑜の右手の親指が、唇に触れてくる。濡れていた。
 いつもそうされるように噛んでやると、笑った。
 笑った。
 「嬉しい、」
 「本心か?」
 爪を染める、紅い色の味がした。
 「嘘なんてつかないもの」
 笑って、嘘ばかりつく。
 「好きです、」
 合わせたくちびるも、同じ味がした。
 つかんだ手首が細かった。
 何も奪うことはできない。負けている。
 「本当だって、分かっているくせに、」


 こんな風に。


 「俺が瑜を甘やかしすぎると、昨日も皆に言われたんだ」
 乾きかけた髪に、ようやく指が通るようになった。
 牀の下に落としたままだった、薄い衣を取ってやる。
 「甘やかすと、ろくでもないことになると、」
 ろくでもない。
 程普になど、どれだけ渋い顔をされているか。
 「事実でしょう?」
 「お前が言うのか」
 「本当のことだし」
 嬉しそうに笑いながらも、けだるげに髪をいじっている。
 両肘をついてこちらを向いたまま、動こうとしない。
 「疲れたか?」
 「少し、だるい」
 抱き寄せてやると、ようやく起きあがった。
 「昼間からこんなことをして、」
 こぼれた息が熱かった。
 背中に回された腕も、胸に預けられた額も熱かった、
 「ひどいことだね」
 「そう思うか、」
 答えが返ってこないのは分かっている。
 細い足首を飾る銀環に触れると、そこだけまだ冷たかった。
 周瑜のためだけに作らせた。
 爪の色と同じ、紅玉が幾つもはめ込まれていた。
 「これは、外すなよ」
 甘い。
 誓いの代わり。枷の代わり。
 所有物なのだという印。
 「一生外さないよ?」
 実際にはどちらが所有物なのか。
 「一生だ」


 一生?


 どこまで。
 「私に印を残すばっかりで、あなたには印、残させてもらえないね、」
 分かってるけど。
 そう言って、目を細めて笑ったのは、周瑜だけだった。
 甘い。
 溶ける。
 「そのかわり、一生、側においてくれるんでしょう?」
 「ああ、」


 あなただけでいいから。
一人にしないで。


 「約束を破ったら、死ぬんだからね」
 どちらが?



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