アクセサリ


 湿度の高い夜だった。
 何もかもが重たい水分を含んで、どこもかしこもこぼれ落ちそうだった。
 しゃりしゃりと鳴る銀の輪っかだけ、冷たい。
 夜中に出歩く癖だけ、抜けない。
 ただ一つ、孫堅に与えられて残った、足環だけが愛おしかった。
 しゃりしゃり、哀しい音楽だった。
 早く雨が降ればいい、と周瑜は祈った。


 雨が降りそうだった。
 このままでは、夜明けも待たずにこぼれ落ちるのだろう。
 眠れなくて外に出た。空気が生ぬるかった。
 厚い雲のせいで、月も星も見えない。暗い。
 回廊の突き当たりに、ふらふらと歩く周瑜の姿が見えた。
 まだ、求めようとしているのか。
 雨が降らなければいい、と魯粛は思った。


 回廊の外に、熟れた桃がなっていた。
 あれも、相当水気を含んでいるのだろう。
 今にも、落ちる。落ちればいい。
 ちょうど喉が渇いていたところだった。
 あのくらいの甘さなら、渇きを潤すのに丁度いい。
 左手を柵にかけて右手を高く伸ばしたのに、指先があと少し、あとほんの少し届かない。
 最低の距離だった。
 届きそうで、届かないなんて残酷すぎる。
 いっそ、手に入らないものは手に入らないのだと、すっぱりあきらめさせてほしい。
 (それでも、あきらめられないものもある)
 爪の先が少し、桃に届いた。
 真っ赤に染めた爪も、今は暗闇の中で黒ずんで見えた。
 爪の形が綺麗だって言われた、そんなことばかり思い出す。
 触れた爪先から、冷たい水が伝い落ちてくる。
 肘の辺りで夜着にしみ込むまで、水の線がいくつもできて、光っていた。
 こんなに暗い夜なのに、どこからかまだ光を集めようとしていた。
 (そうやってまだ、みじめったらしくもがいてもいいですか)
 バランスを崩しそうだった。
 (もう手を放してもいいでしょう?)


 駆けつける。
 周瑜は今にも回廊から落ちそうだった。
 手を伸ばし、思い切り腰を引き寄せて、抱き込んだ。
 「あっ、」
 突然走ったせいで、息が苦しい。
 それなのに、周瑜の方は平然としたまま抱きしめられていた。
 何事もなかったかのような顔だった。
 背中から抱きしめられて、振り返って。
 それが周瑜にとって自然な状態であるのだろう。慣れていた。
 「いったい、何を?」
 「桃」
 「桃?」
 そうして気付く。平然としているのではなくて、表情がないのだ。
 人形のようだった。
 「公瑾、」
 「公瑾?」
 「どうした?」
 「どうして公瑾って呼ぶんですか、文台さま」
 言葉が出なかった。
 「いつもみたいに瑜って呼んでよ」
 笑う。残酷にも、笑った。


 あの人の腕の中はあたたかくて好きだった。
 ずっとここから出たくないと思っていたのに。
 気がついたらこぼれ落ちていた。
 (もうそっちに行ってもいいでしょう?)


 自分の声と、亡き先々代である孫堅の声が似ている、というのは聞かされていた。
 周瑜が、どれだけ孫堅を慕っていたかも。
 いやそれは、慕っていたという言葉だけでは足りないのかもしれない。
 今このとき、周瑜は自分を孫堅だと思いこんでいる。
 「瑜、」
 「あの桃が食べたいのです。ねえ、取ってください」
 人形が、にこりと笑う。
 それが自分に向けた笑みではないことは、明白だった。
 なんて笑い方をするのだろうか。
 「いいでしょう?」
 子どもよりも、無邪気に。
 周瑜は必死に背伸びをしていたようだが、その桃は簡単に取ることができた。
 「ありがとう」
 熟れた桃だった。
 普通に持っているだけで、指が食い込みそうになる。
 皮を剥いてやると、指ごとかじりつかれた。
 「こう……瑜、」
 赤い舌が覗く。
 伏せた目の、その奥が知りたいと思った。
 「文台さま、」
 引きずられて倒れ込む。
 周瑜を膝に乗せるかたちになって、くちびるを合わせた。
 桃の甘い汁が、顎を伝って首筋を伝ってこぼれ落ちる。
 甘くなんて、なかった。


 誰かの体温が欲しかった。
 絡めた指があたたかいのなら、何も考えずにいられる。
 外気に晒された肩も胸も、震えたのは寒いからじゃない。
 「誰かが来たら、どうする?」
 「いいよ、別に」
 「見られてもいいのか?」
 「見られたい」
 回廊の端、厚い雲に覆われて月も星も見えない。
 首筋に噛みついて、歯を立てた。
 見ていてほしい。
 それで、ねえ、嫉妬して戻ってきたりしませんか。
 月も星もないのに。


 こぼれ落ちた髪を指ですいても、さらさらと流れるばかりだった。
 一点の間違いもなく精巧に作られた人形の目は、ただただ闇の色だった。
 既に誰かにつけられていた跡を避けて、新たに徴を刻んでいく。
 こんなこと。
 「文台、さま」
 天を仰ぐ周瑜を。
 背中に回された腕を。
 刺さった爪痕を。
 「瑜、」
 どうしろという?
 「文台さまぁ」
 例えば弧を描く脚をつかんで開かせても。
 「っあ……」
 息をのむ音を、何度聞いても。
 合わせた胸の温度は変わらなかった。
 深ければ深いほどいいなんて思えなかった。


 抱え込まれて、自分の足の爪が見えた。
 闇の中なのに真っ赤だった。
 足首に、銀の輪っかが光っていた。
 しゃりしゃり、鳴った。


 「瑜、瑜、」
 それ以外の言葉を忘れてしまったかのように、ただ名前だけ呼んだ。


 「……っう、」
 こんな風にずっと頭が真っ白なままでいたかった。


 くずれ落ちた周瑜を抱きとめる。
 なかなか息が整わないようだった。
 「子敬、」
 そうして今さら、その名を呼ぶのか。
 「お願い」


 「お願い。今だけでいいから、私のこと、瑜って呼んで」


 今にも泣き出しそうな目だと思った。
 残酷な言葉だと思った。


 「今だけでいいから」
 そう、分かっている。
 「公瑾、」
 魯粛の顔が歪むのを見ていた。
 「違う!」
 「瑜、」
 残酷なことをしている。
 強く目を閉じて、あの人のことだけ考えた。
 あなただけでいい。


 周瑜は傲慢で、わがままで。
 自分の気持ちなどこれっぽっちも考えてなんかいないのだ。
 こんな、声。ただの付属物じゃないか。


 「瑜、」
 「もっと聞かせて」
 永遠に。


 この喉を掻きむしりたいと思った。
 こんな声のせいで。


 この耳をこのまま塞いでしまいたいと思った。
 あなたの声だけ残したままで。


 顔を覆って嗚咽をあげる周瑜の、背中をなだめることしかできなかった。
 しかしその頬に一滴の涙もこぼれていないのを見て、ため息がこぼれた。
 雨が降ってきた。
 風は強くないのに、なぜか横に向かって降ってくる。
 じわじわと濡れてくるのに、二人とも動けなかった。
 いや、周瑜には自分で動く気などなかったのだろう。
 背中と膝に腕を添えて、抱え上げた。


 抱き上げられるのは好きだった。
 「どこへ行く?」
 「どこがいいんですか、」
 「あなたの室がいい」
 望んでみる、まだ。


 雨に濡れる。
 「子敬、泣いてるの?」
 「いいえ」
 「子敬が泣くの?」
 そんな問い、答えられるはずもない。


 あなたがいないってこと、また忘れていました。
 今日も今日も一人です。
 一人です。


 足りない。


 「足りない、よ」


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